〈第3話〉半沢直樹とアドラーと理想郷 20年10月

 ドラマ「半沢直樹」が、最終回で令和の最高視聴率を更新とのこと。俳優陣の一種エキセントリックな演技やセリフ回しばかりがクローズアップされた面はあったものの、人気を集めたのは、もちろんそれだけが理由ではないに違いありません。見ていて思ったのは、結局、少しずつ表現を替えながらも繰り返されていた「まっとうに生きる者が、報われる世の中でなければいけない」「閉ざされた世界だけで通用する屁理屈がまかり通る世の中ではなく、一般社会の常識が通る世の中でなくてはならない」という主人公の訴えに、みんなが内心で共感していたからでしょう。(おそらく、多くの人は頭の中で現実の社会や政治の有様を思い浮かべ、それとの乖離に思いを致していたのではないでしょうか。)そういう意味では、何のことはない、50年以上の昔に始まり長期にわたり放送された(今でも再放送されている)人気ドラマ「水戸黄門」と同じコンセプトでありメッセージだと言っても、大きくは外れていないように思います。

 さて、アドラー心理学の提唱者、A.アドラーは、「常識(コモンセンス)」という感覚を大切にした人だったようです。その講演は、“専門家”でなければ理解できないような言葉を用いず、誰にでも分かる平易な言葉を使い、話の内容も常識的なものであったため、ある講演のあと、話を聴いたある人に「今日の話はすべて当たり前のことばかりだった」(つまり、聴くほどのことじゃ無かった)となじられたことさえあったといいます。ですが、アドラーにすれば、きっと“真理は(エキセントリックな屁理屈ではなく)常識の中にある”と言いたかったのではないかと思います。
 
 そのアドラーが、究極の目標としたのが「共同体感覚」で、これは、外の世界を敵と味方に分断して判断する発想を捨てて、すべてのものは、自分にとって内側の“存在”であるという発想で物事を判断して行動する、言い換えれば“すべてのものに有縁を感じ、それを大切にして生きること”なのではないかと考えます。そして、アドラーの言う「常識(コモンセンス)」とは、この「共同体感覚」に裏打ちされたものを指しますからから、一般に“常識”という言葉から受ける“現実的な物事の見方”と言ったような意味合いとは異なり、精神性の高い心の在り様を意味しています。
 
 ただ、アドラーは、これを「理想郷」と考えたようですが、これを文字通り“ユートピア(ネバーランド)”、つまり“いつまでたってもたどり着かない”ものだと考えるならば、いつまでたっても現実の世界は変わらないでしょう。劇中の台詞にもあったように、“理想と現実は違う”とはよく言われることです。ですが、はじめから理想と現実は違うものだと考えることは、頭の中の思考や感情にあらかじめ自分で枠をはめてしまうようなもので、いったんそれが前提になると、行動も含めてそこからはみ出ることができなくなってしまいます。
 
 では、どう考えればいいのでしょう?それは、理想と現実は同じ地平にある、言い換えれば、理想は先にあって追い求める目標なのではなく、自分の足元にある“今、ここ”の現実の世界こそ、自分の理想でなければならないという前提に立って、自分が行動すること。つまり、必要なことは、自分が生きるこの世界を「理想郷」だと見なして、自分の行動を変えていくしかありません。
 
 なぜならば、人生は一度きり。「理想郷」は、今、生きている、この社会に作らなくては意味がないものだからです。

コメント