〈第6話〉創造力?それとも想像力? 22年3月 

 学校教育を含めた教育の世界において,創造力を養うことの重要性が叫ばれるようになって久しくなりました。そこには画一的な教育への反発という側面もあるように思います。
 ですが,日常の社会生活を送るうえで創造力が必要な場面がどれほどあるか?と考えるとそれほど多くなないだろうという気もします。日常の多くはルーチンワーク,すなわち同じことの繰り返しであって新奇なことをしなければいけない場面は少ないからです。

 創造力を単純に“人と異なる新たな発想,新たなものを生み出す力”とするなら,創造力を養うためには,人に対して周囲と違うことを求めることになります。お互いに違いを認め合うことは,昨今のダイバーシティ尊重の理念から考えても当然のことですが,教育の場においてやみくもに人と違うことを求めることには疑問もあります。
 そもそも,人はそれぞれ異なる存在ですから,「個性の尊重」はある意味言うまでもない自明のことでしょう。ですが,そのことと,すでに違った存在であるものに対してさらにことさら違いを際立たせるようにと促すこと,つまりエッジをきかせることを要求することとは少し違いがあります。本当の意味での「個性の尊重」とは,目の前にある存在をそのまま受け入れるということであって,“違った存在だから”尊重するということではないからです。これはよく誤解されることですが,個性とは“人との違い”ではありません。あくまで,その人の有する全人性,つまり“全体としてのその人らしさ”という意味であって人とのエキセントリックな違いだけに焦点化したものではありません。例えば,その個性が誰かと似通ったものに見えたとして,だからと言って,その個性は尊重するに値しないとは言えないでしょう。人が尊重されるのは,人と違うからではなく,同じであろうとなかろうと,人はその人そのものとして尊重されます。つまり,個性とは文字通り「その人の全体としての固まり」であって,エッジ,つまり人の断片ではありません。この人間の「全人性」は,アドラー心理学でも重要なポイントとして示されています。私たちに必要なことは,人と対したとき,常にその人の全人性に目を向け,その人を全体として理解するという柔らかい想像力だと思います。

 昔から,習い事や学びの世界では,「まねぶ」ことや「守破離」ということが言われてきました。つまり,何事もはじめは真似をすることから始まるということで,そこに必要なものは,新奇な発想力ではなくて,先人の営みを真摯に観察する力や素直に受け入れる力,その意味を想像する力です。おそらくこれらの力は,日常生活を送るうえで,創造力よりは必要とされる力でしょう。
 特に初等教育においては,学校・家庭・社会の別なく「個性の尊重」を当然の前提とした想像力の育成が重要だと考えます。つまり,さまざまな体験活動を通じて周囲の人に対する想像力を働かせ,人の全人性を大切にすることを自分の内なる価値観にしっかり取り込むことです。
 
 ロシアが隣国ウクライナに攻撃を開始して,すでに1週間以上経ちました。原子力発電所への攻撃もありました。一般市民の犠牲も日に日に増えています。自分の放ったミサイルや弾丸がどういう結果を生むのか,自分が命じたことによってどういう結果が生まれるのか。人として当然持つべき「人の痛みを感じる」想像力を持たないことの怖さと言うべきでしょう。

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