〈第1話〉「専門性」とは何か? 20年6月

 確かに専門的とは、多くの場合、そのことについて詳しく知っているといった意味合いで用いられます。「専門性」の高さに、そのことに関する豊富な知識を必要条件とすることに異論はありません。一般的には、専門的、言い換えれば細かな知識を身につけて、「微に入り細を穿つ」コメントを発する人を専門家と言うのでしょうが、本当は、それだけではより重要な半面が抜け落ちてしまうのでは?と考えます。
 
 司馬遼太郎の随筆の中に「鳥の目、虫の目」という比喩があります。「鳥の目」は空の上から俯瞰して見ること、「虫の目」は地を這うように横から観察することと捉えて良いでしょう。専門性とは、得てして、その「虫の目」のような見方だと思われがちですが、実は、「鳥の目」を意味するのではないでしょうか?
 
 世の中の出来事はすべて単独では存在しません。すべて、周りとつながっています。個々の出来事の本質を理解した上で的確な対処をするためには、「虫の目」だけでは不十分で、俯瞰して見る目、すなわち「鳥の目」が必要でしょう。なぜなら、物事の本質は、そのものだけを見ていても十分には見えてきません。他と比較して初めて見えてくるものだからです。

 「専門性」の高さをあたかも顕微鏡のような「虫の目」としての視力の良さだと考えてしまうと、すべては「微に入り細を穿つ」ことで、その本質が見えるという発想に行きつくことになります。ですが、詳細な部分をすべて集めてもそれが全体になるとは限りません。よく言われる例ですが、ゾウの鼻や足、胴体など、如何に詳細なパーツを集めても、ゾウの全体像が正しく示されるとは限らないのです。全体像を正しくつかむためには、やはり全体の姿を俯瞰して知っておく必要があります。

 さらに俯瞰する際には、他の動物の姿を思い浮かべて、たぶんゾウとはこういう姿だろうと考える想像力が必要です。この想像力がなければ、見えたものだけが全てと勘違いする誤りを犯すからです。そういう意味では、専門性の高さとは想像力の豊かさのことだと言っても良いかもしれません。俗にいう「専門バカ」という揶揄は、そういう細部にやたら詳しい反面、全体が見えない(言い換えれば想像力が乏しい)がゆえに、物事の実際の役に立たないことを言います。世の中の出来事に対処するためには、常に大なり小なり臨機応変さが必要ですし、その隙間を埋めるには想像力が必要だからです。

 私たちは「虫の目」を養うことだけを意図した研修ではなく、常に「鳥の目」を意識して、研修相互が関連しあって統合されるような研修を続けていきたいと考えています。

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